It's My Life

ひっそり

記録

先日、北海道大地震がありました。

東海地方に住むボクは何ら被害はありませんでした。

ボク個人としては阪神・淡路大震災も経験しましたが、2011年3月11日の直近では東日本大震災が大きな地震経験です。

 

以下、当時の記録をここに転載しておきます。

 

【以下、転載】

昨年の今日、東日本大震災がありました。

当時、ボクは東京在住。

地震が起きたその瞬間は、お台場の先にある中央防波堤内の自社工場に勤務していました。

以下の記述は昨年(2011年)3/12夕方にMixiで記した日記です。

記録として転載しておきます。

 


昨日、14時半ごろ大きな地震

工場内の震度計では143ガル、震度5。

操業は緊急停止。危険物等の漏えい・破損がないか否かを確認。

工場で勤務中のボクは対策本部で連絡係を担当。 (こういう時、技術畑じゃないボクはホントに役に立たない)

お台場の先の「中央防波堤」に工場があるため、津波被害の可能性も考えて工場敷地内の人達に屋内に居るように通達。

中央防波堤とお台場をつなぐ海底トンネルが通行可能であることを確認し、直接業務に関連しない人たちや業者の人たちを帰宅させる。
※当時は東京ゲートブリッジはまだ完成していなかった。

16時半ごろ、改めてニュースを見る。

津波が船や車そして家をなぎ倒しながら、陸地深くまで浸食していく様子を見る。 今回の地震の復旧にかなりの時間とお金が掛かることを意識せざるを得なかった。

自社工場は特別管理産業廃棄物を取り扱っており、地震後の16:00に搬入予定のモノに関しては、搬入に使用する資器材の安全を確認できなかったために、搬入車両をそのまま屋内にとどめる。 ドライバーは所属する会社の人に迎えに来てもらうことにした。

17:30過ぎ、取り合えずだが応急的な対応が終了し、帰宅が可能なものは帰宅するように命令が出る。

お台場から出るための公共交通機関りんかい線ゆりかもめ、都バスの3つ。

その内、りんかい線ゆりかもめは復旧のめどが立たないため、これらを利用しなければ帰宅が難しい者たちは復旧するまで工場内に待機する。

(この時点で関東圏でココまで影響が長引くとは判らなかった。多くの人間は21時頃には復旧数ると考えていた)

工場に残る自社社員のために緊急用食料を用意する。 基本的には備蓄食品を出しただけだけど。

 

そして、ボクはお台場から10km強の所に自宅(※当時日本橋に部屋を借りてました)があるため、徒歩帰宅を決意。

取りあえず中央防波堤から都バスで脱出。

中央防波堤からの「波01系統」の都バスはこの時点で定時通りの運行がなされていた。

18時前にお台場周辺に着いたが、既に大渋滞が始まっていた。

ビーナスフォート周辺の交差点で下車させてもらい、そこから徒歩で移動することに。

都心に向かう道路はもの凄い渋滞で、徒歩帰宅をする人々で混み合う歩道を徒歩で移動するボクよりも遅いスピードでノロノロと動いていた。

また、歩道も多数の人はそれほど危機感もなく会話をしながら歩いていた。

途中の晴海大橋ではそこから見えるレインボーブリッジや東京タワーをバックに記念写真を撮っている人もいた。
 『普段こんなところ歩かないから、こんなに綺麗な場所があるなんて知らなかったぁ~』 (この時点で東京タワーのアンテナ部分は曲がっていたのだけど)

都心に向かうにつれ、車道、歩道共に車・人が益々増加してきた。

都心に向かおうとしている緊急車両が反対車線をけたたましいサイレンを鳴らしながら走って行く。

勝鬨橋当たりで歩道を歩く人たちが白いヘルメットを被っているのを散見するようになる。

恐らく大手企業が帰宅する者たちに渡したもの。ここまでチャンと用意している会社があることに驚いた。

途中のコンビニはレジを待つ人たちや買ったものをその場で食べる人で混み合っていた。

また、公衆トイレも渋滞。普段なら女性用トイレだけだが、昨日に限って言えば男性もかなりの列になっていた。

吉野家マクドナルドなどでは取りあえず帰宅する前に食事をしようとする人々でごった返していた。

普段の19時台では考えられない。

驚いたのは居酒屋などで飲んでいる人が多かったこと。 彼らは何を考えていたのだろうか?

阪神・淡路大震災での状況を知っている僕には考えられなかった。

 

そんなこんなで約1時間半かけて、無事に19時20分に帰宅。

帰宅難民にならずに済んで良かった。そういう意味では高い家賃を払って都心に住んでいて良かったと実感した。

ボクの室内には不安定な設置状況のものが多く、その転倒を心配していたが、それ程でもなかった。

デスクトップPCの本体が倒れ、書架から本が崩れ落ちていた程度。

買ったばかりの40インチ液晶テレビもストレージ上部に掛けていたBD-1も倒れていなかった。

これらが倒れるとボーナス1回分吹っ飛ぶほどの損害なのでかなりビクビクしていたのだった。

TwitterやFBで友人などの現状を確認する。

両親は神戸なのでナンの被害もない。帰宅難民になっている友人が何人かいたが、既にボクの住む街からは遠く離れていたのでTweetで励ますことしかできなかった。

そんな中、仙台在住のBBT(※ビジネスブレイクスルー大学院。ボクはココでMBAを取得した)の同窓生とBBTU大学生の安否が確認できない。

かなり心配だ。

同窓生は先日異動するボクを気遣ってくれたばかりだと言うのに・・・。

 

22時ごろ、BBT大学に在学中の知人が東京駅近辺にいるらしいと判る。

彼にTwitterでDMし、ウチに来るように促す。

携帯電話がつながらず、若干のタイムロスはあったものの日付が変わった頃に僕の部屋にやってきた。

ボクの室内は明らかに単身生活用に設定されているので来客用布団などはなかったが、炬燵布団と毛布2枚で凌いでもらった。

軽い食事を提供し、なんとか人心地を付けてもらったところで2時ごろ就寝。

明けて12日土曜日。

今回の大地震の被害の大きさが明確になりつつあった。

2時間ほどTVでニュースを見ながら、帰宅難民の知人が無事に帰れるように喰い物と飲物を調達にコンビニに出かける。残り少ない食料とペットボトル飲料を購入して彼に渡す。

9時前に上野に向けて徒歩で移動すると決意した知人を昭和通りまで送る。

その後はニュースをただただ見るのみ。

その後昼過ぎに近所の様子を探索に行く。

幸い、ほとんどの商店はいつも通りに営業しており、喰い物にも困ることはなさそう。
これは僕の住む街がオフィス街で加工が必要な食品を皆が買わなかったためと思われる。

現在は停電に備え、懐中電灯を確認した。

場所柄を考えればボクに住む街が停電になる可能性は少ないが、念には念を入れておく。

10年ほど前まではキャンプも趣味だったので、屋外で数日生きられるくらいの資機材を用意していたのだが、それを辞めてから、テント・寝袋・ランタンなどは処分してしまった。

もう少し広い場所に住んでたら置いとけたんだけど・・・

 

そして現在は、停電になる前に食事を済ますべく炊飯中。

18時ごろには夕食を終えられると思う。

ここ1日のボクの動きは以上です。

日本では災害に乗じた暴動や略奪は起こらないと思う。だけど念のために現金は常に用意しておいた方がいい。

大概の事はお金で片付くから。

まだ余震は続きそうだけれども、不安な心理で居るよりも準備できるものは出来るだけ用意して、不測の事態に備えて今夜を過ごしましょう!

 


以上が2011/3/12 17時過ぎにに書いたものです。

【転載はここまで】